こちらのブログ記事を読んで、思わずレスしてしまった。という記事を昨日書いた。
(昨日の記事はこちら)
昨日書ききれなかったことがまだまだあったので、今日は第2回目ということで、さらに分析を深めようと思う。
今日のポイントは2つ。
- 間接メッセージを使う
- 物語のパワー
1.相手の思考をコントロールする。間接メッセージで。
僕たちは、扇動して相手を自分の価値観に寄せていく。ということをやりたいんだけど、ここで、決して、直接的にやってはいけない。
自分に対してメッセージを送らせたいときに、「メッセージを送ってきてください!」では、ないのだ。
扇動は、相手に誘導しているということを決して悟られてはならない。
もちろん、こっちが言いたいのは俺にメッセージを送ってきてね〜なんだけど、絶対それは言っちゃいけないわけですよ。そういう流れを組んで、相手にうんと言わせなきゃいけない。
題材のブログでは、以下のような流れが組まれている。
- 価値観の共有(間接メッセージを使って)
- 選択肢の削除(間接メッセージを使って)
- オファー(間接メッセージを使って)
見てのとおり、すべて間接メッセージを使ってそれが行われているのだ。
価値観の共有
まずはコミュニケーションがライトになってるよな。という価値観を共有させる。簡単に切ってたら成長もないし後で仲良くなるかもしんないのにもったいないよねと。ここはおそらくほとんどの人が共感して確かに。となる。
で、コミュニケーションがライトになってる原因は、出会いが簡単に得られてしまうから。人は簡単に得られるものは価値を感じないんだよと。それは俺も一緒だったしみんなそうだよと。これも確かに。となる。
逆に、簡単に得られないものは楽しい。ビジネスをあーでもねえこーでもねえってやってる人は楽しそうだし、テニスで勝てるかわかんないとこで勝ったら泣くほど嬉しいし、ストレスがかかっても深めるということは楽しいことだ。ここでも確かにそうだ。となる。
ここまでで、ライト=悪、深い=善。という価値観が共有された状態ができあがる。これをやった上で、人間関係を深める努力をしようぜって言うからこそ、読み手はそうしなきゃって思う。
価値観を共有しないで、ただ人間関係を深めましょうとかいきなりオファーしてもはあ。ってなる。説得できていない。「段階を踏む」のが大切である。
物語を使った間接メッセージで選択肢を削除
それでもライトな方が楽だしな…ってまだちょっと思ってる気持ちに対して、楽ばっかりしてたけど前提が崩れて急激にストレスがかかる恐怖の物語が目に入ってくる。
ライトな方の選択肢を徹底的に潰している。
これも、楽ばっかしてるとある時から急にストレスがかかるから駄目です。と直接的に言うんじゃなくて、物語で間接的に伝える。
それで十分に伝わる、っていうかそっちの方が伝わる。
物語で相手の気持ち・感情をコントロールしてる。
最後にオファー、ここでもギリギリまで間接メッセージ
でそこまでやった上で最後に、SNSを見るだけじゃなくてリプライやDMしてみるとかね、というオファー。
ここまで来ても「しなさい」というオファーじゃない。
「例えば〜とかあるよね」っていう形。直接言ってない。提案してないような提案。実際には明らかに読者に対する提案なんだけど、直接提案するという形は取らない。
最後の最後に「僕にも絡んでくださいな」で、直接メッセージはほんとにその最後の一文だけ。そこまでは全て徹底して間接メッセージ。
お前〜〜しろと直接的に言うことは全っっくない。
もっとみんな◯◯した方がいい。「みんな」という不特定多数に対してしゃべっているのを読者が外から眺めている形。ハードルが低い。タイマンはストレスがかかる。セミナーの方が気が楽。
直接言われるのはきつい。でも直接言われるのではなく、聞いたことを自分で選択するならやらされ感もなく、選択の余地がある感じがするし、自分で選んだことでポジティブな心象にもなる。
自分が自分の価値観に従って選択したと本人は思う。しかしそれはなんと誘導された価値観、選択肢を絞られ進んだ結果であるという、衝撃の事実。
間接メッセージで「流れ」に乗せる
ここまで見て思うこと。それは、
流れがすごい。
本当にまるで流れてくるようである。
僕の行動を振り返っても、確かにそうだ。確かにそうだ。と共感し、選択肢を削られ、恐怖を感じ、最終的に送るべくして僕はメッセージを送った。
行動させる文章は、行動させるに至る「流れ」がある。この「流れ」を、「間接メッセージを使って」構築すること。物語を見せることで、こっちの価値観に誘導すること。
図にするとだいたいこんな感じ。

2.物語で感情を揺さぶる
物語も、このブログにおいて超重要な役割を果たしている。
例えば、最初の方の、友人に飲み会でムカついたけど仲直りしたエピソード。
僕もある飲み会ですげー友人にムカついて、こいつマジでうざいなーとおそらくお互い思って一時的に距離を置いた事もあるんだけど、偶然他の飲みの席であって、久しぶりに盛り上がって、関係が復活して、あれムカついたわーみたいに言えた事もある。それでめちゃ仲良くなった。
たった4行のこの部分。
たった4行だが、これは物語である。
これを読んだ人はどう思うか。感情がストレートに出せている姿をうらやましいような気持ちにならないだろうか。
さらに、これを読んだだけで、この人がだいたい何を言いたいかがもうわかるような気がしてこないだろうか。
そういう意味で、この具体例は、主張そのものを言っている文章よりも重要とも言える。
だってこの部分がキモだから。このエピソードにいろんなものが詰まってる。気持ちとか、感情とか。
物語には感情を含めることができる
別の言い方をすれば、「ぶつかり合うのも大事」という主張を見れば意味はわかるが、この中に感情を含めることはできない。
に対して、
「ある飲み会ですげー友人にムカついて、こいつマジでうざいなーとおそらくお互い思って一時的に距離を置いた事もあるんだけど、偶然他の飲みの席であって、久しぶりに盛り上がって、関係が復活して、あれムカついたわーみたいに言えた事もある。それでめちゃ仲良くなった。」
は、これを言えば全てが伝わるというか、たとえ他を読み飛ばしたとしても、ここさえ読んでおけば、どういうスタンスで話してるのかがわかる。
主張が点であるのに対し、物語は面で伝えてくるという感じ。
情報量が多い。
その時の情景や、感情までも含めた情報だから、伝わるニュアンスが多い。物語は事実とともに感情も一緒に伝わってくる。
そう、物語はその時のその人の感情をイメージできてしまう点がすごいのだ。物語を見ることで読者は書き手(あるいは登場人物)の感情に触れることになる。
たとえ、僕はこう思ったとか書いてなくて事実の羅列だけだったとしてもだ。(例えば、中学生の僕が学校から帰ったら隠してたエロ本が机の上にうずたかく積まれてた。とかいう文章があったら、感情は書いてないけど主人公の感情を想像して読み手の感情も動いてしまうだろう)
物語を見せればだいたい伝わるよってこと。みなまで言うなである。物語は読み手にとっても読みやすいし、物語を見ることで勝手に読者の感情が動かさって(?)くれる。
もう一度。
「ぶつかり合うのも大事」
って言うのと、
「ある飲み会ですげー友人にムカついて、こいつマジでうざいなーとおそらくお互い思って一時的に距離を置いた事もあるんだけど、偶然他の飲みの席であって、久しぶりに盛り上がって、関係が復活して、あれムカついたわーみたいに言えた事もある。それでめちゃ仲良くなった。」
って言うのとは、何が違うか。
言いたいことは一緒。でも印象がまるで違う。臨場感、生き生きした感じ、感情、が伝わってくる。これが物語のパワーだ。
後半の物語
ブログの後半にはこんな話も出てくる。
昔は高級フレンチに金持ちイケメンが連れてきてくれて、タクシー代どころかお小遣いまでくれて、バッグも買ってくれてみたいな感じだったのが、金持ちでもねえ38くらいのおっさんにその辺の居酒屋に連れて行かれて、電車で帰れって言われたりね。
これももちろん物語である。
「ストレスの耐性つけとかないと、いざストレスがかかったときに耐えられない恐れがある」
とか普通に言うのと比べて、どうだろうか。
物語を見て、何か感情を抱いてしまわないだろうか。
「可哀そうだな」
「辛いだろうな」
「自分はそうはなりたくないな」
もう無意識にそういうことを感じてしまう。物語と感情は切り離せない。
ここで恐怖の感情を抱いて、ストレス耐性をつけなくちゃ。=人間関係を深める努力をしなきゃ。=勇気を出してDM送ってみようかな…送ってみよう。である。これがまさにおとといの僕だ。
まとめ
題材のブログは、コンテンツを有料で売るか無料で配るか?の問題とも似てる。
無料のコンテンツは簡単に手に入れられるが、やる気が出にくい。
有料のコンテンツの方が元をとらなきゃという気持ちが働き、購入者がよく行動してくれる。
まさに「目の前にありすぎるものには人は価値を感じにくい」である。
新品と中古とかもそうかもしれない。
新品はコストが高いがその分愛着も湧き長く使える。
目の前にあるものに価値を感じれない問題は、実はいろんな行動に影響している気がする。
2日にわたり、自分が反応してしまったブログを何度も読んでみて、内容をより深く理解できたのではないかと思う。
またどうして自分が反応してしまったのか、
同じように人を動かすにはどうすればいいのか、
分析させてもらうことができた。
いいコンテンツに感謝である。
さらに学び、盗み、行動させるコンテンツを作っていこう。